山ほど旅しているのにその1割もここに綴れていない現実がある。どうして書くことに躊躇してしまうのか、作業が止まってしまうのかの話。
思いのままに、思いつくままに、飾らずに、ありのままに書く、隠さずに表現する――
こういうくだりのブログがたまにある。最近は個人の徒然ブログなんて検索上位にあがってこないので見かけなくなったけど、10年以上前のブログならそういうものが多かった。主婦、サラリーマン、学生が思いのまま愚痴や社会批判などを書いていた。自分のブログなんて誰も見ていないだろうという気持ちで書きなぐっていたのだろうし、そういうブログは何か情報の最先端やHot to記事でアクセス集中するわけでもないし、誰かを強く攻撃するようなことを書くわけではない。ただつらつらと意の向くままに構成や言葉を気にせず書いているのだ。
いつからかブログが胡散臭いメディア媒体のような、自己啓発を促すようなおかしな場所になってしまった。「ブログの書き方」をこぞって取り上げ、炎上しない表現、ネガティブな記事は書くな、意見を押し付けるななど「当たり障りなく敵を作らないコンテンツ」を書くようになった。(もちろんGoogleもそれを好んだのだけど)そうやって何を検索してもロボットが書いたような退屈で深みのない長文のブログ祭りが始まった。実体験でもないようなランキング形式が流行ったり、吹き出しだらけだったり、どれもこれも同じテンプレードに放り込んで書かれていたり。「こんにちは!~です!」で始まり、「いかがでしたか?」で結ぶ記事を見てイラつくのは私だけではないらしい。読んでいて気分が悪くなるほど文字稼ぎしたつまらないコンテンツが多い。またその人がYoutubeなんかで話すとガッカリするほどプレゼンがつまらないし、高圧的なものの言い方が多くてイライラする。
若い世代と話していると、最近は「ロンドン留学 ブログ 2024」など、ブログに絞って検索するらしいけれど、どうも上手く絞れないからnoteやはてなブログ内にアクセスしてから検索するそうだ。
私は幸い(?)知られていない場所や、辺鄙な村へ行く方法など「アクセス狙いのブロガーが書かないこと」を検索するので、意外と古参ブロガーや几帳面な年配者のホームページにたどり着くことが多い。
このモヤモヤを岡田斗司夫先生が説明してくれて妙に納得した。
思いついたことをかっこよくまとめて書いちゃう人がすごく多い。キラーフレーズや結論を思いついた前に具体的な事件なり具体的な事があるはずなんです。頭を良くみせたいノートにしちゃだめなんですね。
タイトルでほぼ決まる、結論を先に書いて最後に再度書け、箇条書きでわかりやすく淡々と書け、よけいな表現を含めるななど、いわゆるテクニカルライティングが出回り過ぎたのだ。アプリの使い方程度ならそれでもいいが、書評や旅行、グルメや子育てまでそうなってしまったから気味が悪い。旅行ブログと題しているのに、お得なフライトやホテルばかり紹介して、旅のドタバタ日記はどこにも書かれていない。
そのうえ、そういう価値観で過ごしているような人に直接会うと話し方まで無駄を省いたつまらない口調で話すのだから驚いた。それなりにメディアの世界では有名な起業家(?)と働く話が進んだのだけど、感情を読み取れず喧嘩売ってるように聞こえてしまうし、社交辞令に微笑むことさえしない、自分の話も1つもしないし、私に適当に質問してくるのも不愉快で断ってしまった。
というのはレアケースで、私が今まで直接お会いした有名ブロガーさんはみんな明るくて楽しい人が多い。オンオフ切り替えて書いている器用な人たちという印象だ。その人たちが表のブログとは別に思いを綴るようになったのがnoteだ。
おおぉnoteは思いのまま書いて自分を表現できる場所なのか!と思っていたら、実際のnoteの中はみなさんきちんとした構成で読みやすく書いているのでまた気が引けてしまった。
本音本心を書いている人はいるのだろうか、どうやって書くのだろうか
例えば私の文章の中に「私はドイツ人が苦手、嫌い」と書いたとして、その理由を書かないと読み手はしっくりこない。1つや2つの嫌な過去で苦手と思っているわけではないし、仲良しのドイツ人友達も何名かいる。ただ25年間の経験の中で他の外国人と比較すると、これまで出会った少人数のドイツ人にイラっとする頻度が高すぎるから敬遠している。場面ごとに説明するにしても、その情景を上手には表現できないし、「言い方」や「態度」の問題もある。うまく伝わらなければ読み手としては軽率な悪口に思えて不快だろうし、私自身も安易に判断する奴だと思われてしまう。じゃあ誰も不快にさせないために初めからそういうことを書くのを避けよう、となってしまうのがThe日本人で、思いのまま書き綴っているといつかどこかでつじつまの合わない場面がでてくる。単片的に読んでいる人にはわからなくても、書いてる自分はモヤモヤする。私の随筆なのに場面や理由を端折って書いているのはおかしい。
ポジティブなことを伝えるのは、感動の深さを伝えられなくてもとりあえず誰も悪い気はしないし、言葉少なめに写真を添えて伝える事さえできる。どこかよくわからないけど「おお~★」と思ってもらえればそれで両者は嬉しい。
でもネガティブな感情は多くの場合は伝わらない、とくに日本人が知り得る機会が少ないと不可能に近い。でも当たり前でしょう、旅行なんて8割くらい踏んだり蹴ったりですよ。知らない場所に行くってのはそういうことです。美しい写真なんてその1瞬でしかなくて、ガッカリ、不安、適当な労働態度、不便、気候、汚い、高い、言語、検索検索検索の繰り返しでストレスは常にMaxの状態。(汚い以外は日本も同じ)。それが嫌なら高額のツアーに参加して枠内のラグジュアリーな時間を過ごすしかない。「好きな事より嫌いな事が共通する人の方が親近感がわく」のはそういうことだ。
SNSは顕著にそれを感じるからどんどん疎遠になってしまった。楽しいことや驚いたこと、綺麗な写真を投稿すれば反応はいいが、愚痴を書きなぐると見えないかのごとくスルーされる。政治の事を書くおじさんに反応がないのと同じように。田舎町に住んでいるとSNSは町民のプライベートを覗き見して噂のネタにされるツールとなっている。世間では感情のまま投稿することで炎上することがあるけれど、小さなコミュニティの中では表向き波風は立てずとも「あんなこと書いてた人、あんなふうに思っている人」としてチェックされる。さらにいいねなんてしてしまうと、同類としてチェックされてしまう。だから田舎にはリアルなことを書いているブログが少ない、移住したくても全く中が見えない。畑仕事やら季節の写真しか載せないのはそういうことだ。インターネット上の他人にどう思われようが大きな問題ではないが、リアルの小さな町で厄介を作りたくない。
メンタルや鬱のコミュニティやカテゴリの中で思いを書けば、同じ経験をしている人たちによって励ましが生まれるし、本人の気持ちの整理にも役立っている。だけど例えば登山SNSの中でプロフィールにつらつらと鬱とか●●病とか書かれると、「え、ここで主張しなきゃいけないことなの?」って私なんかは思ってしまうんですよ。人見知りとかコミュ障で主張してくる人も同じです、「何が言いたいんだろう」って思いますねぇ。でも好きなように表現できる個人ブログや、noteのような場所で場の雰囲気や言葉を選ばなきゃいけないのは、じゃあどこに書けばいいの?って途方に暮れてしまう。
私が40も過ぎて8か月という時間と金を使ってでもヨーロッパを旅した理由が、「ずっと行きたかったから」の一言で済むだろうか。これまでも数か月~1年単位でたくさん旅をしたけれど、「見てみたかった、興味があった」だけで社会生活を投げてまで行くだろうか。ポジティブな理由だけが原動力になるだろうか。
このブログに私の旅日記を綴り、別ブログでは登山日記を綴る。Instagramを見れば世界の綺麗な写真が並び、別のアカウントには自宅で経営している宿で外国人らとワイワイ過ごす写真が並んでいる。でも肩書はフリーランスのWebデザイナー。おおよその人が私を自由人で成功者でキラキラした生活を勝手に想像する。
でも帰国して1か月、ほとんど家に引きこもっているし数分会話をしたのは3~4人。外食やコンビニ弁当を食べて朝になり、昼ごろ起きる廃人生活をしている。私はそんな人なんです。
それなのに、なんだか綺麗ごとだけ表に書き綴るというのは、すごく嘘をついてる気分になる。
続けざるをえないことをブログのテーマとすれば良いのです。「自分が読者ではいられないこと」。それが〈自分のブログ〉の軸となりえます。それは「好きなもの」ではなく「大切にしたいこと」。
ずーっと覚えている倉下氏のコトバ。そう、その大切にしたいことをまとめるなんてことがどうしてもできない。
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